2019年4月14日日曜日

Living Computer Museum(その6) ~PC編~

現在のPCは、日本の電卓ベンダーだった「ビジコン」社が、当時の新進企業インテルにLSIを発注したことからスタートします。

この頃、日本ではシャープとカシオによる電卓開発競争が激化しており、小型化や薄型化とともに機能拡張も盛んに行われていました。

両社に対抗するため、ビジコン社では「簡単に機能を追加・変更できる電卓用IC」を求めていました。これがコンピュータであることを見抜いたインテルのエンジニアは、ビジコン社の社員だった嶋正利氏とともにCPUを設計します。このあたりの経緯は「マイクロコンピュータの誕生――わが青春の4004」に詳しく記載されています(ただし、嶋正利氏の視点であることには注意してください)。

4004は電卓用だったため、4ビット単位で演算を行う「4ビットCPU」でした。4ビットあれば10進1桁を表現できたからです。

後に8ビットCPU「8008」が開発されましたが、ハードウェア的に少々扱いにくかったため、8080を開発します。「40ピンのワンチップLSIでCPUが入手できる」ということで話題になりました。ピン間隔は約2.5mmです。

インテル8080マイクロプロセッサ

当時、半導体は同じ仕様の製品が複数社から提供されるのが普通でした。2社目以降を「セカンドソース」と呼びます。CPUも例外ではなく、セカンドソースとしてNECなどが8080互換CPUを製造していました。

1社独占になるのは16ビットCPUから32ビット化が進んだ頃だと思います。

モトローラMC6800トレーニングキット

インテルに続いて、モトローラもCPU製造を開始します。8080は電卓用途からスタートしたため、汎用のコンピューターとしては機能不足や、アーキテクチャ的に「美しくない」点が感じられました。この問題は、今のXeonになってもいまだに言われます。私、最新の命令セットを知らないので、本当かどうかは判断できないんですが。

後発のモトローラ社は、通信機や半導体製造の大手企業であり、最初からコンピューターとして設計したMC6800を投入します。DEC PDP-11を参考にしたとされるCPUは、小型ながら豊富なアドレッシングモードと、ある程度直交した命令体系を持ち、多くの人に支持されます。

ただし、CPUは小さくてもコンピューターにはソフトウェアが必要です。そこで、エンジニアがソフトウェアを作成し、実際の動作をテストできるような最小構成のキットが発売されました。いわゆる「トレーニングキット」です。

展示してあったのは、モトローラMC6800のトレーニングキットです。

なお、日本ではNECが8080互換CPUを使った「TK-80」を発売し、当時としては爆発的に売れました。買ったのはエンジニアだけではなく、ホビイストも多かったようです。

ALTAIR 8800 (キット)

Altair 8800は、インテル8080を使ったコンピュータキットです。トレーニングキットとは異なり、純粋にホビー用途でした。

Altair 8800にはソフトウェアが全くなかったため、ビル・ゲイツとポール・アレンがAltairの製造元であるMITS社に「BASICインタプリタ」を売り込むことに成功します。マイクロソフトの創業がシアトルではなく、アルバカーキなのはMITS社がアルバカーキにあったためです。

IMSAI 8080 (ALTAIR 8800互換品)

Altairのハードウェアには少々雑なところがあり、製作者は苦労していたようです。製作代行業者もいたと聞きます。

IMSAI 8080はAltair 8800と完全互換のコンピューターで、より洗練したハードウェアを持っていました。

テレタイプ社のテレタイプ

AltairやIMSAIの入出力装置として使用されたのが「テレタイプ」です。テレタイプは、タイプライターから入力した文字を遠隔地で印字する装置で、テレタイプ社の商標です。企業でも、コンピューターのキー入力装置としても広く使われました。

特に人気のあったのがASR-33という機種ですが、機械式タイプライターに似た機構は、打鍵がうるさく一般家庭で使えるようなものではなかったそうです。

コモドールPET 2001の後継と思われる

インテル8080やモトローラMC6800は180ドルくらいだったそうです。1975年当時は1ドル300円程度ですから、5万4000円程度になります。さすがにちょっと高いので、完成品としてのコンピューターはかなり高価になります。ちなみに現在のインテル Core i5の小売価格は2万円くらいです。

そこに登場したのがモステクノロジー社の6502です。これは、モトローラのMC6800開発チームがスピンアウトして作ったCPUで、シンプルながら洗練されたアーキテクチャを持っていました。

6502はわずか25ドル(7500円)で入手できたため、ホビイストたちの興味をひきました。こうして生まれたのがApple IIであり、コモドール社のPET 2001です。

写真はPETの文字はありますが、キーボードがオリジナルPET 2001と違います。改良モデルなのでしょう。PET 2001はApple IIよりもソフトウェア性能やハードウェア機能面で劣っていたようですが、安価なためよく売れました。

任天堂ファミリーコンピュータ(ファミコン)も6502互換CPUを使っています。

TRS-80

タンディラジオシャック(TRS)が発売したTRS-80は、Apple IIやPET 2001と同様、買ってすぐ使える完全なコンピューターで、BASICインタープリタを内蔵していました。また、本体とキーボードが一体で、ディスプレイを外付けするようになっていました。

写真のTRSはフロッピーディスクが付いているので、後期モデルと思われます。初期モデルは、外部記憶装置としてオーディオカセットテープを使っていたはずですし、ディスプレイも分離型でした。

TRS-80は、Apple IIよりも落ち着いたデザインで、ビジネス用途に広く使われたように思います。

クロメンコ(Cromemco)社のPC

クロメンコも、IMSAIと同様、Altair互換機ですが、使っている人はあまり見ませんでしたが、世界的にはかなり売れたはずです。写真のような一体型PCを出しているのは知りませんでした。おそらくTRS-80の少し前だと思います。

IBM PC

満を持してIBM PCが登場です。型番はIBM 5150、名称はthe IBM Personal Computerだそうです。「IBMらしい名前だ」と月刊アスキー誌に出ていたのを覚えています。

先に紹介した「Welcome IBM. Seriously」というアップル社の広告は、このIBM PC登場直前の出来事です。

Compaq Portable

IBMは、サードパーティの参入を容易にするためシステム情報を積極的に公開しました(過去のIBMには絶対なかったことです)。しかし、IBMの予想に反して、本体の互換機が出てしまいます。Compaqもその1つで、本家よりも高速で高機能なPCを発売します。

Compaqポータブルは、世界初の「持ち運べる(ポータブル)PC」です。

IBM PC/AT

互換機に懲りたIBMは、新機種PC/AT以降、PC情報に対してライセンス契約を要求するようになりました。これに対抗して、PC互換機ベンダーは協同で別規格を立ち上げます。

最終的にIBMが実質的に折れることになり「IBMがIBM互換機を作る」などと報道されてしまいました。

さまざまなPDA

各種PDAも展示されていましたが、このあたりは新しすぎるせいか、単に並べてあるだけでした。

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