2019年4月16日火曜日

Living Computer Museum(その7) ~ストレージ編~最終回

Living Computer Museumの紹介も第7回。最終回はストレージの紹介です。

最古のストレージが「ホレリスカード」、何しろコンピューターより古くからあります。統計処理に使われたようですね。当時の1ドル札とほぼ同じで、紙幣運搬用の箱に入れて保管したそうです。

ちなみに、1枚80文字です。Living Computer Museumでは実際にパンチしたカードを持って帰ることができました。

ホレリスカード(パンチカード)

コアメモリモジュール。ミニコンピューターでは広く使われたようです。ドーナツ型のフェライトコアに3本の線を通したものを、網戸のようなモジュールにまとめています。

メモリ(磁気)の保持に電源を必要としないため、ノートPCのハイバネート的な使い方もできたそうです。

コアメモリモジュール(32KBくらいでしょうかねえ)

網戸的な部分をアップで撮影。

コアメモリのアップ(網戸みたい)

コアだけの展示もありました。

コアメモリのコア

寄ってみると、ドーナツ状の形が分かります。

コアメモリのコア(拡大)

コンピュータの故障コーナーもあって、クラッシュしたディスクが展示してありました。

クラッシュした磁気ディスク

こちらは旧式のディスク。円盤は数枚あるのに全部で200MBしかありません。おそらく1980年代のものでしょう。

磁気ディスクパック(200MB)

磁気ディスクの原型となった磁気ドラム。今でもアイコンに使われています。

磁気ドラム(今のディスクのアイコンはこれ)

磁気ドラムのアップ。

磁気ドラム

70年代特撮ドラマでおなじみ(?)磁気テープ。ここにあったのはDEC TU78で、私も使いました。「私も使った」というと、学芸員の人が驚いてました(笑)。

DEC TU78磁気テープ

Living Computer Museumの話は以上です。

実際に動くのが面白くて、4時間くらいいたように思います。お土産にCray-1のペーパーモデルを買ってきました。組み立てたらまた紹介したいと思います。

2019年4月14日日曜日

Living Computer Museum(その6) ~PC編~

現在のPCは、日本の電卓ベンダーだった「ビジコン」社が、当時の新進企業インテルにLSIを発注したことからスタートします。

この頃、日本ではシャープとカシオによる電卓開発競争が激化しており、小型化や薄型化とともに機能拡張も盛んに行われていました。

両社に対抗するため、ビジコン社では「簡単に機能を追加・変更できる電卓用IC」を求めていました。これがコンピュータであることを見抜いたインテルのエンジニアは、ビジコン社の社員だった嶋正利氏とともにCPUを設計します。このあたりの経緯は「マイクロコンピュータの誕生――わが青春の4004」に詳しく記載されています(ただし、嶋正利氏の視点であることには注意してください)。

4004は電卓用だったため、4ビット単位で演算を行う「4ビットCPU」でした。4ビットあれば10進1桁を表現できたからです。

後に8ビットCPU「8008」が開発されましたが、ハードウェア的に少々扱いにくかったため、8080を開発します。「40ピンのワンチップLSIでCPUが入手できる」ということで話題になりました。ピン間隔は約2.5mmです。

インテル8080マイクロプロセッサ

当時、半導体は同じ仕様の製品が複数社から提供されるのが普通でした。2社目以降を「セカンドソース」と呼びます。CPUも例外ではなく、セカンドソースとしてNECなどが8080互換CPUを製造していました。

1社独占になるのは16ビットCPUから32ビット化が進んだ頃だと思います。

モトローラMC6800トレーニングキット

インテルに続いて、モトローラもCPU製造を開始します。8080は電卓用途からスタートしたため、汎用のコンピューターとしては機能不足や、アーキテクチャ的に「美しくない」点が感じられました。この問題は、今のXeonになってもいまだに言われます。私、最新の命令セットを知らないので、本当かどうかは判断できないんですが。

後発のモトローラ社は、通信機や半導体製造の大手企業であり、最初からコンピューターとして設計したMC6800を投入します。DEC PDP-11を参考にしたとされるCPUは、小型ながら豊富なアドレッシングモードと、ある程度直交した命令体系を持ち、多くの人に支持されます。

ただし、CPUは小さくてもコンピューターにはソフトウェアが必要です。そこで、エンジニアがソフトウェアを作成し、実際の動作をテストできるような最小構成のキットが発売されました。いわゆる「トレーニングキット」です。

展示してあったのは、モトローラMC6800のトレーニングキットです。

なお、日本ではNECが8080互換CPUを使った「TK-80」を発売し、当時としては爆発的に売れました。買ったのはエンジニアだけではなく、ホビイストも多かったようです。

ALTAIR 8800 (キット)

Altair 8800は、インテル8080を使ったコンピュータキットです。トレーニングキットとは異なり、純粋にホビー用途でした。

Altair 8800にはソフトウェアが全くなかったため、ビル・ゲイツとポール・アレンがAltairの製造元であるMITS社に「BASICインタプリタ」を売り込むことに成功します。マイクロソフトの創業がシアトルではなく、アルバカーキなのはMITS社がアルバカーキにあったためです。

IMSAI 8080 (ALTAIR 8800互換品)

Altairのハードウェアには少々雑なところがあり、製作者は苦労していたようです。製作代行業者もいたと聞きます。

IMSAI 8080はAltair 8800と完全互換のコンピューターで、より洗練したハードウェアを持っていました。

テレタイプ社のテレタイプ

AltairやIMSAIの入出力装置として使用されたのが「テレタイプ」です。テレタイプは、タイプライターから入力した文字を遠隔地で印字する装置で、テレタイプ社の商標です。企業でも、コンピューターのキー入力装置としても広く使われました。

特に人気のあったのがASR-33という機種ですが、機械式タイプライターに似た機構は、打鍵がうるさく一般家庭で使えるようなものではなかったそうです。

コモドールPET 2001の後継と思われる

インテル8080やモトローラMC6800は180ドルくらいだったそうです。1975年当時は1ドル300円程度ですから、5万4000円程度になります。さすがにちょっと高いので、完成品としてのコンピューターはかなり高価になります。ちなみに現在のインテル Core i5の小売価格は2万円くらいです。

そこに登場したのがモステクノロジー社の6502です。これは、モトローラのMC6800開発チームがスピンアウトして作ったCPUで、シンプルながら洗練されたアーキテクチャを持っていました。

6502はわずか25ドル(7500円)で入手できたため、ホビイストたちの興味をひきました。こうして生まれたのがApple IIであり、コモドール社のPET 2001です。

写真はPETの文字はありますが、キーボードがオリジナルPET 2001と違います。改良モデルなのでしょう。PET 2001はApple IIよりもソフトウェア性能やハードウェア機能面で劣っていたようですが、安価なためよく売れました。

任天堂ファミリーコンピュータ(ファミコン)も6502互換CPUを使っています。

TRS-80

タンディラジオシャック(TRS)が発売したTRS-80は、Apple IIやPET 2001と同様、買ってすぐ使える完全なコンピューターで、BASICインタープリタを内蔵していました。また、本体とキーボードが一体で、ディスプレイを外付けするようになっていました。

写真のTRSはフロッピーディスクが付いているので、後期モデルと思われます。初期モデルは、外部記憶装置としてオーディオカセットテープを使っていたはずですし、ディスプレイも分離型でした。

TRS-80は、Apple IIよりも落ち着いたデザインで、ビジネス用途に広く使われたように思います。

クロメンコ(Cromemco)社のPC

クロメンコも、IMSAIと同様、Altair互換機ですが、使っている人はあまり見ませんでしたが、世界的にはかなり売れたはずです。写真のような一体型PCを出しているのは知りませんでした。おそらくTRS-80の少し前だと思います。

IBM PC

満を持してIBM PCが登場です。型番はIBM 5150、名称はthe IBM Personal Computerだそうです。「IBMらしい名前だ」と月刊アスキー誌に出ていたのを覚えています。

先に紹介した「Welcome IBM. Seriously」というアップル社の広告は、このIBM PC登場直前の出来事です。

Compaq Portable

IBMは、サードパーティの参入を容易にするためシステム情報を積極的に公開しました(過去のIBMには絶対なかったことです)。しかし、IBMの予想に反して、本体の互換機が出てしまいます。Compaqもその1つで、本家よりも高速で高機能なPCを発売します。

Compaqポータブルは、世界初の「持ち運べる(ポータブル)PC」です。

IBM PC/AT

互換機に懲りたIBMは、新機種PC/AT以降、PC情報に対してライセンス契約を要求するようになりました。これに対抗して、PC互換機ベンダーは協同で別規格を立ち上げます。

最終的にIBMが実質的に折れることになり「IBMがIBM互換機を作る」などと報道されてしまいました。

さまざまなPDA

各種PDAも展示されていましたが、このあたりは新しすぎるせいか、単に並べてあるだけでした。

Living Computer Museum(その5) ~Apple編~

現在のPCの基礎を築いたApple製品ももちろん数多く展示されています。

これは Blue Box と呼ばれた「製品」で、世界中どこでも無料で電話をかけることができました。電話会社の交換機のバグを利用しています。当時は不正アクセス禁止法的なものがなかったはずなので、違法かどうかは分かりませんが、製作者のスティーブ・ウォズニアック(Appleの共同創業)が違法と言っているそうなので違法なのでしょう(Apple設立につながる電話ハッキングデバイス「ブルーボックス」についてウォズとジョブズ、関係者が語る)。

ちなみに、本来「hacking」はニュートラルな表現で、「工夫してうまいことやる」くらいの意味です。Blue Boxは電話交換機のhackであり、違法なものでした。

Blue Box (無料で電話をかける装置)

このBlue Boxを売りさばいたのがスティーブ・ジョブズで、最後はヤクザとトラブルを起こして殺されかけたそうです。

後にApple Iと呼ばれた製品(完成品ではなかった)

ステーブ・ウォズニアックが作ったApple I。ただし、設計中はまだ名称はなかったようです。Appleという社名はスティーブ・ジョブズが考案したそうです。

Apple Iの電源(パワートランジスタ)

スイッチングレギュレーターは一般的ではなかったため、パワートランジスタを使ったシリーズレギュレーターを使っているようです。

Apple II (スティーブ・ウォズニアック設計の傑作)

完成品として売り出されたApple II。ケースのデザインにはスティーブ・ジョブズの影響が強いとされています。一方、Apple IIの特徴である多数の拡張スロットはスティーブ・ウォズニアックが断固として譲らなかったとか。また、回路図も公開されていました。

この拡張スロットに別のCPUボードを装着することもできたようで、ザイログZ80を搭載しCP/M (当時広く使われた8 bit CPU用OS)を動かした人もいました。

回路図を公開し、仕様を公開した拡張スロットで機能を強化する考え方は、後にIBM PCに引き継がれます。

一方、スティーブ・ジョブズはあくまでもクローズドな環境にこだわり、中を開けることすらできないMacintoshプロジェクトを率います。

Apple III (まだ5インチFD)

Apple IIの後継製品Apple III、ビジネス的にはあまり成功しなかったようです。

Apple Lisa 2 (本来Macとは別プロジェクト)

フルGUIのLisa (写真はLisa 2)。Lisa開発中、スティーブ・ジョブズがPARCでのデモを見て、キャラクタベースからGUIに方針転換されたそうです。

Macintoshのケース内側(開発者のサインが刻印されている)

その後、素行不良でLisaのプロジェクトを追い出されたスティーブ・ジョブズが乗っ取ったのがMacintoshプロジェクト。初代Macintoshの筐体内部には開発のサインが刻印されています。

先に書いたとおり、一般的なツールでは中を開くことすらできないのに、こんな刻印を入れるのは自己満足の塊ですが、開発者としては嬉しかったことだと思います。

Macintosh SE (この辺からMacが実用的になった)

初代Macintoshからしばらくは縦長の一体型でした。3.5インチフロッピーディスクが採用されたのもここからです。なお、初期の3.5インチフロッピーディスクには自動シャッター機能がなかったのですが、Macintoshのために作られたという噂です(参考:記録メディアの歴史)。

マウスボタンを1つにしたのもスティーブ・ジョブズの決断です。PARCの研究では、3ボタンが最も生産性が高いことが分かっていたのに、あえて1ボタンを採用したのは、生産性よりも単純さを優先したからのようです。

なお、PARCではマウスの右ボタンは、ウィンドウのサイズ変更や移動に使っていたので、3ボタンマウスは現在の感覚では2ボタンと同じ操作になります。ウィンドウ端をつかむ部分(ウィンドウハンドル)はありませんでした。

IBMがPCに参入したときに出したAppleの広告

IBMがPC業界に参入する前、ウォールストリートジャーナルに掲載した広告。

Welcome IBM. Seriously

英語の定型句なら

Welcome IBM. Sincerely. (IBMの参加を心から歓迎します)

となるのでしょうが、ちょっと違います。無理に訳すとこんな感じでしょうか。

IBMの参加をマジで歓迎します。

この広告は、コンピュータ界の巨人IBMの参入をAppleは恐れており、単なる空元気だったという説もあれば、Appleは自社に自信があるため、余裕を持ってIBMを「おちょくってる」という説もあります。

その後、ご存じのようにAppleは、Apple IIの思想を受け継いだIBM PCにビジネス的には大敗しますが、Macintoshシリーズは市場シェア以上の存在感を維持し、DTP分野を中心に広く使われるようになります。

もっとも、初期のMacintoshの販売戦略は混乱気味で、DTP市場を獲得したのも偶然の要素もかなりあるようです。

2019年4月1日月曜日

Living Computer Museum(その4) ~ワークステーション編~

まだまだ続きます。

ここの博物館で、もっとも興味をひかれたのがXEROX社のPalo Alto Research Center (PARC) で開発されたALTOの復刻版です。

XEROX社は、このままコンピュータ化が進むとコピー需要が減ると考えてコンピューターの研究をしていました。

PARCはその中心地で、以下のような技術が研究されていました。

  • ワークステーション…1人が1台のコンピューターを占有する考え方です。現在では当たり前のことです。
  • ビットマップディスプレイ...画面上のドットをメモリに割り当てる仕組み。現在のグラフィック表示の基礎です。
  • マウス…最近はタッチデバイスに押されていますが、現在でも広く使われているポインティングデバイスです。
  • Ethernet LAN…後にDIX(Xerox、Intel、DEC)規格となりました。その後IEEE 801として標準化されますが、現在でもUNIXのLANはDIX規格をベースにしています。
  • レーザープリンター…XEROX社のコピー技術を応用したプリンターで、現在のビジネスプリンターの標準方式です。

残念ながらXEROX社はこうした技術の商用化に失敗し、LAN研究をしていたロバート・メトカーフ氏は3COM社を設立(後にHPが買収)、プリンター用のページ記述言語を製作していたチャールズ・ゲシキ氏とジョン・ワーノック氏はAdobeを設立し、PostScript言語を開発します。

また、ワークステーションのデモを見たスティーブ・ジョブズ氏やビル・ゲイツ氏がウィンドウシステムの開発を決心したのは有名な話です。

ちなみに、PARCでワードプロセッサーの研究をしていたチャールズ・シモニー氏はマイクロソフトで表計算ソフトウェアMultiplanやExcel、ワードプロセッサーWordなどを開発します。

復刻版ALTO(モニター)

復刻版ALTOは、実際に起動するところを見せてもらいました。

復刻版ALTO(電卓アプリ)

復刻版ALTOで動作する電卓アプリ。

ALTOエミュレーター(左)と復刻版ALTO用ディスクパック(右)

ALTOの起動に使われたディスクパックはDEC製でした(写真右)。また、ALTOエミュレーターも動作していました(写真左)。

ALTOエミュレーター(自宅で実行)

ALTOの直系システムStar(これは商用化されており、日本ではJ-Starとして販売されていました)のエミュレーター「DarkStar」はGitHubで公開されています。自宅で実行してみました。エミュレーターとシステムソフトウェアが別々に公開されていることに注意してください。

なお、J-Starはワープロ専用機として販売されており、プログラム環境はなかったと記憶しています。Starについては分かりませんが、エミュレーターとしてスタンフォード大学で開発されたLisp言語「Interlisp」にGUI機能を追加した「Interlisp-D」が動作しました。

Interlispは、MITで開発されたMacLispと並んで人気があり、西のInterlisp、東のMacLispと言われていました。

試作マウス

試作版マウスも展示してありました。最終的に3つボタンマウスが採用されます(日本では「みっつキーマウス」と呼んだ人もいます)。左ボタンは現在と同じ使い方ですが、現在の右ボタンは中央ボタンに割り当てられました。

残った右ボタンはウィンドウの拡大やクローズなどの操作メニューを表示します。当時のウィンドウには、現在のようなウィンドウハンドルがなく、マウスで「つかむ」という操作ができなかったためです。1980年代になってもX Window Systemのuwmでは同様の方式が採用されていました。

最初期のPC用マウス

最初期のPC用マウスは2ボタンでした。ボタンの使い方は前述の通りで、実質的にPARCの3ボタンマウスと同じ使い方をします。

PARCの研究では、2つ以下だと操作性が落ち、4つ以上だと操作に戸惑うことが分かっています。Macintoshでは、スティーブ・ジョブズの一存で1ボタンに決まったとされていますが、おかげで操作性が随分低下しています。

最初期のPC用マウス(裏面)

移動距離は底面の金属ボールの動きで検出しています。後にゴムボールになり、現在は光学式が主流です。

ワークステーションの源流については以上です。


その他、初期のコンピューター関連展示物で、前回までに書きそびれたものをついでに紹介します。
PLATOシステムの端末

PLATOシステムの端末です。PATO上で動作する情報共有システムとして「Plato Note」というソフトウェアがありました。これが後の「Lotus Notes」に発展します。

私は、前職でPlato NoteをベースにしたVAX Notesという製品を使っていました。

ENIGMA暗号機

第2次大戦でドイツ軍が使った暗号システム「ENIGMA」。暗号化技術とコンピューターは密接な関係をもって発展します。

十進計算機(手動)

手動式の十進計算機。日本や中国には算盤があったので、この種の計算機はほとんど見ません。