2019年3月31日日曜日

Living Computer Museum(その3) ~メインフレーム編~

70年代までのコンピューターをリードしたのはなんといっても、(今の呼び名では)メインフレームでしょう。DECは「ミニコンピューター」と呼ばれ格下に見られていました。「ミニ」というのはネガティブな意味を含むそうで、当初DECは「ミニコン」と呼ばれることを大変嫌っていたそうです。

DECが存在感を増したのはVAX-11からです。

当時IBMのメインフレームの主力機種System/370は32ビットCPUでしたが、仮想アドレス空間は24ビットしかなく(後に31ビットまで拡張)、汎用レジスタは命令によって使いみちが制限されていたり、スタックポインタを持たないため、再帰呼出しが面倒だったりしました。

1977年に発表されたDECのVAX-11は、32ビット仮想アドレス空間と、整然とした命令セットを持ち、命令セットレベルでコールフレームが定義されており、複数のプログラム言語の混在も容易に可能になりました。

↑メインフレームを収納したマシンルームの入口。雰囲気があります。

↑XEROXのサーバー。わりと珍しいですね。XEROXのサーバー部門は後にハネウエルに売却されたそうです。

↑MITの独自OS「ITS(Incompatible Time Sharing System)」。

動作しているのはDECのマシン(のエミュレーター)のようです。ITSはログオンしなくてもOSの情報をある程度入手できるため、セキュリティホールとまではいかなくても、侵入者は情報を入手しやすかったようです。

↑CDC(コントロールデータ)のコンソール。

世界最初期の電子計算機として有名なENIACは米国陸軍がスポンサーでした。設計の中心はペンシルベニア大学のジョン・モークリーとジョン・エッカートは会社を設立します。資金難でレミントンランド社に買収されたもののUNIVAC Iという世界最初の商用コンピューターを完成させます。

レミントンランド社はスペリー社と合併してスペリーランド社となり、最後はバローズと合併してユニシス(UNISYS)社となります。

UNIVAC Iの後継機種のプロジェクトはかなり混乱していたそうで、優秀な技術者がスピンアウトすることになりました。その1つがCDCで、有名なシーモア・クレイ氏も含まれていました。

CDCは、長い間世界最速のコンピューターを作り続けたのですが、それはシーモア・クレイ氏の功績と言われています。

クレイ氏の最も大きな発見は(今では当たり前のことですが)、コンピューターの速度はCPU単独でなく、メモリやI/Oなど入出力のバンド幅にも依存することを指摘したことです。

その後、クレイ氏はCDCを離れ、クレイリサーチ社を設立します。そこでできた製品がCray-1です。

円柱状の筐体は、配線距離を最適化するためだそうです。

椅子状の部分もコンピューターの一部です。

内部配線が見えています。

寄ってみるとすごいことになってます。はたしてこれでメンテナンスできたのでしょうか。

椅子状の部分は実際に座れます。

ちなみに、1970年頃の主要コンピュータベンダーは「IBM+BUNCH」と言われていました。BUNCHはバローズ、ユニバック(スペリー)、NCR、CDC(コントロールデータ)、ハネウエルです。

NCRはキャッシュレジスターの会社としての方が有名かもしれません。ハネウエルはMulticsを搭載したサーバーを販売していたことで知られています。

Crayは汎用コンピューターではなかったので入っていません。DECもVAX-11発売前で、ビジネス用途にはあまり進出していませんでした。

メインフレームコーナーの入口には、プログラム言語COBOLの設計者で海軍軍人のグレース・ホッパーさん。

「バグ」という言葉を最初に記録に残した人としても有名です。もともと米軍には「エラー」のことを「バグ」という習慣がありました。グレース・ホッパーさんはある日、コンピュータの中に蛾が混入して誤動作していることを発見し、日誌に「これがほんとのバグ」と記したそうです。この蛾はスミソニアン博物館に展示されているはずです。

ところで、グレース・ホッパーさん、COBOL設計時には既に50代、女性エンジニアの先駆者であるとともに、シニアの星でもあります。

2019年3月30日土曜日

Living Computer Museum(その2) ~Digital Equipment Corporation編~

Living Computer Museumには1日に3回、学芸員による無料ガイドツアーがあります。集合場所は、PDP-7の前。初期のUNIXはこれで開発されました。

PDP-7

TSSの実用化などを目指した巨大OS「Multics」のプロジェクトから脱退したベル研究所(当時のベル電話研究所)のケン・トンプソンは、よりシンプルな形で再構成しようと思い、研究室で誰も使っていないPDP-7にOSの実装を開始しました。このOSは、Multicsに対して「1つのことしか実行できないUnics」と名付けられ、後の「UNIX」になりました。

PDP-7自体は18ビットワードマシンで、それほど大きな成功は収めなかったようです。大抵の人は「UNIXが生まれたマシン」という認識しかないと思います。私もそうです。

なお、1970年頃までCPUのワードサイズは6の整数倍が一般的で、8ビット単位の処理が普及するのはIBM System/360などが登場する頃からです。

PDPシリーズを製造していたDEC (Digital Equipment Corporation) は、創業時に投資家から「コンピューター事業を全面に出すな」というアドバイスを受けていました。コンピューターはリスクが大きく、投資家が敬遠したためです。

そのため、DECの創業製品はデジタル回路モジュールでした。コンピューターの主要部品としても使えるのですが、コンピューターそのものではありません。

これも展示してありました。見るのは初めてです。

デジタル回路モジュール

デジタル回路モジュールのビジネスが成功し、DECは念願のコンピューター事業に乗り出します。これがPDP(Programed Data Processor)シリーズです(それでも「Computer」とは表記していません)。

当時、コンピュータの互換性はあまり問題とはされていなかったため、シリーズ間の互換性は高くありませんでしたが、「似た系列」や「同じハードウェアインターフェース」の製品はありました。

PDP-10は、初期のインターネットの研究に使われた他、コマンドの補完機能(Ciscoのネットワーク機器やPowerShellでもおなじみの機能)もこの時に登場しました(当初の実装はDECではなかったようです)。

DEC System 10 (PDP-10)

36ビットワードのPDP-10は後にSystem 10と名前を変え、メインフレームとして扱われるようになります。

後継機種のSystem 20はSystem 10との基本的な互換性を持った36ビットワードマシンです(PDP-20と呼ぶ人もいますが正式名ではありません)。こちらは人工知能研究に広く使われました。日本の産学協同プロジェクト「新世代コンピュータ技術開発機構(ICOT)」の主力開発機としても採用されています。日本国政府が関わりながら、海外のコンピューターを導入するというのは大英断だったそうです。

DEC System 20

なお、これらのマシンの多くは、実際にはエミュレーターで動作してました。

エミュレーターボード

PDP-8は、PDP-10よりも前に登場したコンピューターです。こちらは12ビットワードマシンで、安価な構成が可能でした。PDP-8は後にワンチップ化され、機器組み込みCPUとしても使われました。ワープロ専用機やパーソナルコンピュータ的な製品もあったはずで、結構売れたようです。

PDP-8

PDP-12は、PDP-8と似た12ビットワードマシンです。こちらはそれほど売れていないはずです。

PDP-12

学芸員の話では、世界で数台のPDP-12ということでした。

PDP開発チームがスピンオフしてできた会社Data Generalが、PDP-8対抗機として売り出したのがNovaです。一説には、8ビット1バイトのバイトマシンを採用するかどうかでチームがもめたためだそうです。

PDP-8のチーフエンジニアだったエドソン・デ・カストロ氏はDECを退職しData Generalを設立、8ビット1バイトを処理単位とする16ビットワードマシンNovaを発表し、市場に受け入れられます。

Data General Nova

また、既にIBM System/360などでもバイト単位処理が採用されていたため、DECもバイト処理が可能な16ビットワードマシンPDP-11を投入します。

ちなみに、PDP-7で開発されていたUNIXは、かなり初期の段階でPDP-11に置き換わりました。

Data GeneralはPDP-11対抗機としてEclipseを発表します。また、DECが完全32ビットコンピューターのVAX-11を発表するとData GeneralはEclipse MV/8000で対抗します。

VAX-11は、PDP-11との互換モードを持ちますが、Eclipse MV/8000はモード切替なしに完全な互換性を実現していました。しかし、何もしなくても古いプログラムが動くということで、新しいアプリケーションがなかなか出なかったようです。

一方、VAX-11のエミュレーションは必ずしも高速でないため、顧客は新システムに移行せざるを得なかったという話も聞きます。

世の中、なかなかうまくいかないものです。

このあたりの経緯は『超マシン誕生』といいうノンフィクションで詳しく紹介されています(【読書日記】超マシン誕生』)。

PDP-11 & VAX-11

PDP-11からVAX-11の世代交代は比較的スムーズだったと聞いています。ちなみにVAXはVirtual Address Extension(仮想アドレス拡張)の略、11はPDP-11の略だそうです。

VAXシリーズは途中からVAX8500のように11が消えます。PDP-11エミュレーション機能を廃止したからだそうです。

ちなみに、VAXのオペレーティングシステムVAX/VMSの開発リーダーが、マイクロソフトでWindows NTプロジェクトのリーダーとなったデビット・カトラーです。

Windows NTの最初のバージョンは3.1で、これはWindows 3.1との互換性を意味します。数字で互換性を示すのはVAXのやり方でした。

VAX-11/780

VAX-11シリーズ最初の機種がVAX-11/780です。1977年発表で「1978年に向けて」という意味だそうです。

ポール・アレンとビル・ゲイツが。、Altair BASICを開発したのもPDP-10だったせいか、Living Computer Museumでは、DEC製品が特に充実していたように思います。

Living Computer Museum(その1) ~Microsoft MVP Global Summit 2019~

Microsoft MVP Global Summitのついでに、シアトルにあるLiving Computer Museumに寄ってきました。シアトルダウンタウンから、Uberで$8くらいでした。歩けなくもないと思いますが、夜はやめた方が良さそうです。
Living Computer Museum外観
あんまり治安のいいところではないそうです
外観はなんとなく倉庫みたいですね。
Safeco Field改めT-Mobile Park(ネーミングライツ切れのため)
Living Computer Museumから徒歩圏内でした
Safeco Fieldからは徒歩圏内です。Safeco社が持っていた権利が切れたため、現在はT-Mobile Parkになっています。
歴史的なOSを利用できる(要事前申請)
歴史的なOSが使用できます。事前にアカウント申請をしなければならないのを知らなかったのですが、困っていたら係の人が声をかけてくれて、Multicsを使ってみました。
その直後にオンライン申請したところ、別の係員が来てくれましたが、係員用のアカウントが分からずログオンできませんでした(笑)。奥さんが日本人だそうで、日本語の会話もで来ました。SSHを使ってリモートログオンもできるということですが、いまだにアカウントが送られてきません。私の申請はどうなったたのでしょう。
図書コーナーには算盤がありました(五の玉が2つあるタイプ)
デジタルこのピューターの元祖
図書コーナーには算盤がありました。5つ玉が2つ、玉が丸いので旧式のやつですね。中国では今もこの形だそうです。日本の算盤は、玉がはじきやすいように端がとがっています。
算盤はデジタルコンピューターの元祖みたいなものですね。
書棚には、Living Computer Museum設立者のポール・アレン氏の著書の日本語版もありました。
巨大計算尺(アナログコンピューターの元祖)
そして、巨大な計算尺も。計算尺は、対数目盛を利用して乗除算を行う道具ですが、私はもう使い方を知りません(教科書には付録として載っていましたが)。アナログコンピューターの元祖ですが、アナログコンピューターを知らない人も多いでしょうね。
アナログコンピューターは、広利得のアンプ(オペアンプ)を使って、対数変換器と精密ボリュームで計算する機械です。電気信号の速度で計算できるので高速ですが、式が変わるたびに再配線が必要です。
自動運転シミュレーター(軽く酔いました)
自動運転シミュレーター。視野が広いので、没入できますが、軽く酔いました。ヘッドマウントディスプレイではなく、周辺270度くらいがスクリーンになっています。
Museum Storeで売っていたLife Game
売店で売っていたConwayのLife Game。LEDで表示します。うっかり買いそうになりましたがやめました。
Museum Store

その他、Raspberry PIを使ったキットがいろいろありました。
Tシャツなんかもあったのですが、あまり凝ったデザインはなかったので今回は購入せず。その代わり、Crayのペーパーモデルを買いました。


ビル・ゲイツとポール・アレンが最初に作った製品

ビル・ゲイツとポール・アレンが最初に作った会社「TRAF-O-DATA」の製品。交通集計システムと聞いています。

ホビイストへの公開状

マイクロソフト創業直後に出した有名な「ホビイストへの公開状」。ソフトウェアは誰かの労働の産物であり、無断でコピーして配布するのは窃盗と同じだと主張しました。今では当たり前の考え方ですが、当時、ソフトウェアには著作権が認められていなかった上、ホビイストたちは「人の作ったものは勝手に使って良い」という考え方が根強く、ビル・ゲイツのこの手紙は非難の的となりました。

ビル・ゲイツの考え方はソフトウェア産業を興しました。一方、ホビイストたちの考え方は紆余曲折を経て、オープンソース運動を含むシェアエコノミーに発展しました。

ビル・ゲイツとのポール・アレンのレジュメ

ビル・ゲイツとポール・アレンのレジュメ。履歴書に身長体重や結婚の有無が書いてあるのに驚きます。そして、「unmarried(未婚)」が「single(独身)」に訂正されているのが面白いですね。また、現在の給与1500が1250に下方修正、希望給与がopen(希望なし)から1500に修正されているのも面白いですね。これ、当然ドルだと思うので月給でしょうか。1974年は1ドル300円くらいだったので、1500ドルだと45万円です。20代の若者に対する給与としては結構いい金額です。

だいぶ縮小したので、ブログの写真では読めないと思いますが。

Microsoft PIXELSENSE

Microsoft PIXELSENSE、旧称Surface。テーブル型のPCで、マルチタッチ対応、センサー付きのトークンを使うことでさまざまな応用が考えられたのですが、商業的には成功しませんでした。

シアトルの現状を見て ~Microsoft MVP Global Summit 2019~

毎年開催されている「Microsoft MVP Global Summit」に参加してきました。Microsoft MVPだけが参加できる特別なイベントです。

Microsoft MVPサイトより

マイクロソフトの製品やテクノロジーに関する豊富な知識と経験を持ち、オンラインまたはオフラインのコミュニティや、メディアなどを通して、その優れた能力を幅広いユーザーと共有している個人を表彰するものです。MVP アワードの表彰は全世界で行われており、現在は、世界 90 か国以上、4,000 名を超える方々が MVP として精力的な活動を続けています。

Microsoft MVP Global Summit」は、現地(マイクロソフト本社)集合ですが、参加費は無料、2名で1部屋の宿泊費も負担してくれます(シングルルームは半額負担)。

コア日程3日(さらにポストイベント2.5日)では技術カテゴリごとのブレークアウトセッションが開催され、マイクロソフト社内でも一部の人しか知らないような内容が披露されます。また、製品の方向付けを決めるようなディスカッションも多いため、当然NDA(機密保持契約)が必要で、違反者には損害賠償を含めた罰則があります。

このように、NDAの縛りがあるため内容については話せません。そこで、このブログではMVP Summitに行って気付いたことや、ついでに寄ったLiving Computer Museumのことを書きたいと思います。


シアトルで目に付いたのが、Limeと呼ばれる緑の自転車です。詳しくは同僚の山下さんのブログ「シアトルにあったシェアサイクルLimeはすごく便利だと思う」をどうぞ。Limeは乗り捨てOK、見つけたらすぐ乗車可能なので、昔よくいた自転車泥棒の気分を味わえます。

Lime, rental bicycle

日本にも類似のサービスはありますが、決められた場所で借りて、元の場所に返す必要があります。乗り捨てするとすぐに駐輪違反で回収されてしまうでしょう。そういえば、レンタカーも米国では乗り捨てコストがほとんどかからないのに、日本ではとんでもなく高いですね。

もう1つ、便利だったのがUber。スマートフォンのGPSと連動し、契約車(日本だと白タク扱いなので違法です)を呼んでくれます。ダウンタウンなら概ね数分以内につかまるでしょう。呼ぶ時点で目的地を入力し、その時点で金額が固定されます。支払いは事前登録されたクレジットカードを使うので、運転手に支払は発生しません。チップも、乗車後に追加できます。誘拐などのリスクを減らすため、乗車と同時に信頼できる友人に乗車情報を伝える機能があるし、先日は911(日本の110番)通報機能も追加されました。金額は、需給バランスで決まるようで固定されていないようですが、事前に分かるので安心だし、タクシーを上回ることはほとんどありません。

Uberは日本にも進出しているのですが、二種免許の存在やそもそもタクシー事業が許認可制であることから、タクシー会社と提携して運営されています。ただし、利便性は著しく落ちます。規制産業故の制約です。

これに限らず、とにかく日本は規制が多いですね(市民革命を経験していないため「原則自由」の思想がないという説がある)。たとえば、米国での路上ライブはよほど通行の邪魔にならない限り違法ではないのですが、日本では警察が無条件に違法とみなします。本来、違法かどうかを判断するのは警察ではなく裁判所ですが、逆らうと逮捕される可能性がある(逮捕でなくても警察署に連れて行かれる例は多い)ので逆らえません。よほど大規模で計画的なものでない限り、有罪になったケースはないらしいのですが、若いミュージシャンを脅すには十分な威嚇効果です。

国や自治体だけでなく、国民も規制を望む傾向にあります。路上ライブを通報して止めさせるのを趣味にしている人もいるくらいですし、それを支持する人までいます。コスプレイベントも、周辺住民の反対により、コスチュームを着た状態で会場外に出ることは禁止されるのが普通です。コミケ(コミックマーケット)のように、周辺に住宅がほとんどない地域でも厳しく自主規制されています。

ちょうどMVP Summitのために渡米した日、シアトルで「Comi-Con (Comic Convention)」が開催されていて、コスプレイヤーが大勢出歩いていました。コスプレ親子も多く、微笑ましい感じがしました。

コスプレ発祥は米国ですが、発展したのは日本です。その日本で、街頭でのコスプレ禁止というのはちょっと不思議な感じですね。「一般人が怖がる」という説もあるのですが、こんなに目立つ格好で犯罪を犯す人もいないと思います。


コスプレ

スターバックス1号店では、お土産に1号店限定の豆を購入。スターバックスで購入した豆は、世界中どこの店でも挽いてくれます。日本で挽いてもらうと、かなり高い確率で「1号店に行かれたんですか?」と話しかけてくれます。

スターバックス1号店

店内では、オーダーテイカーがバリスタにカップをよく投げてます。

オーダーテイカーからバリスタへ

スターバックス1号店近くにある有名なチーズ屋さん(Beecher's)。最近は行列ができます。私、チーズはそれほど好きでもないのですが、ここのチーズは好きです。

Beecher's


Beecher'sの看板

スターバックス1号店のある一帯が「Pike place Market」、米国でもっとも古い市場だそうです。有名な魚屋さん。アンコウやらサケやらが並んでいます。

どうでもいい写真ですが、hardwareは金物の意味で、コンピューター製品の意味ではありません。mountain hardwareは登山道具のようですね。

hardwareは金物の意味


mountain hardwareでロッククライミングの写真

ワシントン湖からスペースニードルが見えています。

シアトルの夜景